江戸時代から愛媛に根付く
「柑橘の歴史」
「柑橘の歴史」
愛媛県の柑橘栽培は、江戸時代の終わり頃、宇和島市吉田町
で伊勢参りや四国巡礼で手に入れた、みかんの苗木を植えたのがはじまりとされています。
1968年にはみかんの
生産量が日本一に。
生産量が日本一に。
明治時代になると、熱心に栽培する農家が増えはじめました。
鉄道を使った輸送やトラック輸送などによって愛媛の柑橘は、日本全国に届けられるようになりました。
1940年代には戦争の影響もあり生産量は大きく下がりましたが戦後はそれまで以上の勢いで増え始め、1968年にはみかんの生産量が年間38万トンで日本一になりました。
鉄道を使った輸送やトラック輸送などによって愛媛の柑橘は、日本全国に届けられるようになりました。
1940年代には戦争の影響もあり生産量は大きく下がりましたが戦後はそれまで以上の勢いで増え始め、1968年にはみかんの生産量が年間38万トンで日本一になりました。
1980年頃からは、ハウス栽培も取り入れられるようになり、必要な温度・水分をコントロールできるようになったため、冬以外も柑橘を美味しく食べられるようになりました。
現在では、伊予柑やポンカン、不知火(デコポン)など柑橘全体で全国一位の生産量を誇る「かんきつ王国」と呼ばれています。
現在では、伊予柑やポンカン、不知火(デコポン)など柑橘全体で全国一位の生産量を誇る「かんきつ王国」と呼ばれています。
昭和30年(1955年)に、松山市平田町の宮内義正さんが草刈りをしているときに“おや?”と思う、カタチの違う珍しい伊予柑の一枝を発見しました。
市役所で務めた後に柑橘栽培を始めた義正さんだからこそ、この珍しさに目をとめたことが、この「宮内伊予柑」の始まりでした。 その一枝を接木して育てた結果、従来の品種に比べると果肉も温州に近くやわらかく、味も良い上に、生産者にとって嬉しい「育てやすさと貯蔵のしやすさ」を兼ね備えた「芽条変異(がじょうへんい)」であることが確かめられました。
通常、新しい品種開発には15年以上の歳月と様々な掛け合わせの努力の結晶から生まれる中、この偶然の出会いは、まさに奇跡の発見と言えるでしょう。
市役所で務めた後に柑橘栽培を始めた義正さんだからこそ、この珍しさに目をとめたことが、この「宮内伊予柑」の始まりでした。 その一枝を接木して育てた結果、従来の品種に比べると果肉も温州に近くやわらかく、味も良い上に、生産者にとって嬉しい「育てやすさと貯蔵のしやすさ」を兼ね備えた「芽条変異(がじょうへんい)」であることが確かめられました。
通常、新しい品種開発には15年以上の歳月と様々な掛け合わせの努力の結晶から生まれる中、この偶然の出会いは、まさに奇跡の発見と言えるでしょう。
その後、様々な調査を経た後に昭和41年(1966年)に「宮内伊予柑」として種苗登録されると、その育てやすさと品質の良さから、愛媛県内の柑橘農家へと広がり、今では松山地方の特産として全国で愛される柑橘になりました。その母樹は、昭和52年(1977年)に、松山市の文化財として市指定天然記念物となっています。